「最期の時間を共に過ごす」

今回は2021年11月に投稿したブログを紹介します。この当時の僕は、訪問診療を行うようになって半年が経過したころでした。そのときにある患者さんと出逢い、それをきっかけに自分の想いに気づくことがありました。

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「これって、僕の数年来の想いが叶ったことのかもしれない。」

この4月から在宅医療に携わるようになり、患者さんのご自宅へ伺って診療をしています。その中で、病気が進行したときに、病院ではなく、ご自宅で最期の時間を過ごしたいと考える方もいます。

そして、そのような患者さんの中に、数年前、自分が脳神経外科医として脳腫瘍への放射線治療を担当した患者さんがいて、再会することがあったのです。

「わー、永野先生ですね、お久しぶりです。」

「そうですね○○さん。お久しぶりです。覚えていてくれたのですね、とても嬉しいです。実は、この4月からこのように訪問診療をするようになったんですよ。」

そんな会話から始まり、

「やっぱり、知っている先生に来てもらえると安心するわね」
そんな嬉しい言葉も頂いたりしました。

そして、ふと思ったことがあったのです。

「これって、僕の数年来の想いが叶ったことのかもしれない。」

それは、2008年4月から2021年3月まで、脳腫瘍の放射線治療(ガンマナイフ治療)を専門として診療をしていて、たくさんの患者さんと関わるうちに、思うようになったことがあったのです。

もし出来ることならば、2泊3日の治療期間だけでなく、それ以降も、患者さんと関われるようになりたい(基本的にガンマナイフ治療は2泊3日の診療なのです。その後は3ヶ月ごとに僕の外来へ通院して頂ける患者さんもいれば、ご自宅が遠方のため通院できず、それ以降の診療は紹介元の主治医に経過観察をお願いすることもあったのです)。

そして、もう1つの想いは、その診療をしているときに、70代の男性で、肺癌、転移性脳腫瘍の患者さんから頂いた言葉がきっかけでした。

「先生、できるなら、先生に俺の最期を看取って欲しいな。」

この言葉を初めて受け取ったときは、ドキッとして緊張が走りました。

(そんな大役を自分ができるのだろうか。あくまでも自分は脳の専門家であって、肺癌患者さんの最期を看取るなんて経験したこともないし、もし最期のときの呼吸が苦しくなったら、それに対処する自信もない。ただこの患者さんは本気でそれを言っているのがわかるし、どうやって応えていこうか。)

そんな想いが湧いていたように覚えています。

その当時、自分の診療がガンマナイフ専門であって、毎日2-3名の患者さんを治療しながら、外来診療もしていることや(そのため、それ以外の診療に関わる時間がない)、病院の役割が循環器疾患の急性期病院であるため、がんの患者さんを診療する体制ではないこと(もし必要な場合はがんセンターへ紹介していました)、そのような理由から、患者さんの申し出をお断りしていたのです。

そんな患者さんとのやりとりは一度だけでなく、何度もあったのです。

(ただ、今となって思うと、これらの理由よりも自分自身にがん患者さんの最期を診療するという経験が少なくて、その覚悟がなかったという方が正しいのかもしれません。)

そして、こんなやりとりを患者さんとしていたときに、ある年配の先生から言われたことがあったのです。

「永野は、がん患者さんの治療をしているのに、自分の治療した患者さんの最期を看取れないなんて、忸怩たる思いがあったりするんじゃないか。」

(果たして、そうなのだろうか? がんの治療に関わるからには、その患者さんの最期まで診療することが当然なのだろうか? それが出来ていない自分の診療は恥ずべきことなのだろうか?)

ちなみに「忸怩たる思い」を辞書で調べるとこのように書いてあります。

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自ら恥じ入る気持ちに駆られること。
またはそのような感情。「
忸怩」(じくじ)は自分の言動を恥じること。
(実用日本語表現辞典)
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もしかすると、僕が脳神経外科医であるから、がん診療を専門にする先生方とは考え方が違っているのかもしれない。そんなことも考えてしまいました。ただ、その当時の自分は年間500件ほどの治療と、毎月、国内や国外の学術集会へ参加をしていて、とてもそれ以上の診療が行える状況ではなく、自分は自分の与えられた役割を十分に果たしているものと思っていました。

(もうこれ以上は無理)それが当時の正直な心の声でした。

ただ、ふと思うことがあったのです。もし自分が患者さんの立場であるとして、そして、その言葉を医師に伝えるとしたら、それはどんな気持ちが湧いてきているからなのであろうか。

やはり、「この先生なら」って思うからなのだろうか。例えば、信頼できるからとか、人として好きだからとか、傍にいてくれると安心するとか、そういった想いがあるから、看取って欲しいってお願いしてしまうのではないだろうか。

そう考えると「自分の最期を看取って欲しい」だなんて言われることは医師として最高に嬉しい言葉なのではないだろうか。

だからこそ、その想いに応えられないのは、忸怩たる思いに駆られるということになるのかもしれない。

そんなことに気付いた瞬間があったのですね。

そして、その時に自分の中で大きく何かが変わったように思うのです。

「いつの日か、そういった患者さんの想いに応えられるような診療をしていきたい」

そんな想いが僕の心の中に芽生えていたように思います(ただ、その想いに気づくには5年以上かかりましたけどもね)。

そして、今、在宅医療に携わる自分がいます。

図らずとも、在宅医療に携わるということは、患者さんの人生の最期の時間を共に過ごすということになると思うのです。

果たして、今の自分であっても、その患者さんからは、「先生、できるなら、先生に俺の最期を看取って欲しいな。」その言葉を頂けるような医師であるだろうか。

いつの日か、またその言葉を頂けるように、診療を続けていこう。